山本理顯的不屈精神:一位建築家的抗爭與和解

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山本理顯的不屈精神:一位建築家的抗爭與和解

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山本理顯的不屈精神:一位建築家的抗爭與和解


山本理顕:建築界的獨行俠與其不屈之旅

當我們談論到當代建築的巨匠時,日本建築師山本理顯的名字總會令人矚目。他不僅是一位建築大師,更是一位勇於挑戰既有體制的鬥士。山本理顕,這位1945年於中國北京出生的建築家,憑藉著其在東京藝術大學大學院及東京大學生産技術研究所的學習經歷,開創了自己的建築設計之路。他的事務所,山本理顕設計工場,坐落於横浜市,這裡見證了他無數次將紙上的藍圖轉化為現實中的建築藝術作品的過程。

山本理顕的代表作,如横須賀美術館與埼玉県立大學,不僅彰顯了他的建築才華,同時也展現了他對於提升建築師地位及完善設計者選定制度的不懈追求。這位大師的名字,與建築設計的卓越無疑已經成為同義詞。

面對不公:山本理顕的訴訟之路

然而,山本理顕的職業生涯並非一帆風順。當他在名古屋與學校法人進行了超過兩年的訴訟後,他不僅向業主成功追回了約5400萬日元未支付設計費,也為自己在被事實上解除的校長職位上獲得了和解,他實際上被解雇了,現在預計他將能夠重返該職位。這段旅程反映了山本理顕對於建築家角色與職能性的深思,以及他在面對大學教育危機時,不得不提出問題的決心。

與學校法人名古屋的爭執

在這場旷日持久的法律戰中,山本理顕與名古屋市的學校法人「同朋學園」有過深刻的交鋒。同朋學園,這個運營著仏教系同朋大學及同朋高校的學校法人,還包括了名古屋音樂大學與名古屋造形大學。由於山本於2016年在名古屋造形大學的一次講演後被委以重任——設計即將遷至名古屋市北區的名城公園新校區——這段合作的開始似乎充滿了希望與機遇。

然而,當進展到新校區的設計階段,以及山本被邀請接任造形大學校長時,這段合作關係逐漸展現出裂痕。山本為了接受這一職位,向學園提出了幾項條件,包括進行大學改革以及增加管理支持等。雖然這些條件最終獲得了接受,但隨著時間的推移,特別是在COVID-19疫情期間,雙方的緊張關係逐漸升級,最終導致了山本的訴訟行動。

回顧與前瞻:山本理顕的建築哲學

山本理顕對建築的熱情及其對公正的堅持,是他職業生涯的驅動力。他的工作不僅僅是為了完成建築作品,而是要確保這些空間最終能夠服務於公眾,特別是那些直接使用這些建築的人。對山本來說,建築師的工作遠超過簡單的設計活動,更關乎於倡導和保護那些可能無法為自己發聲的人。

即便面對來自「同朋學園」方面的反對和挑戰,山本仍然堅持他的原則,並將這些經歷作為一種推動社會和建築行業進步的力量。他的事例提醒我們,建築師不僅是創造者,也是守護者,他們的作品和行為能夠深刻影響社會結構和人們的生活。
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建築家・山本理顕が大学の学長を辞めさせられ、裁判に訴え、設計料を取り戻し、また復帰しようとするまで

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出處

建築家・山本理顕が大学の学長を辞めさせられ、裁判に訴え、設計料を取り戻し、また復帰しようとするまで


建築家・山本理顕(りけん)。

 建築に携わり、建築を学んだことがあれば、その名を知らない人は少ないだろう。

 設計を手掛けた「横須賀美術館」や「埼玉県立大学」といった代表作はもちろん、建築家の地位向上や設計者選定の制度確立などのためには訴訟も辞さないほど徹底的に闘うことで知られる。

そんな山本が名古屋で学校法人を相手に2年余りに渡る裁判を争い、未払いだった設計料約5400万円を取り戻す裁判で昨年10月に勝訴。事実上解任させられた学長職の地位を巡る裁判では昨年末に和解に至り、再び学長に復帰できる見通しとなった。

 「大学教育の危機と、建築家の役割や職能性を考えたときに、問題提起せざるを得なかった」という山本は、裁判を通じて何を訴えようとしたのか。その顛末をまとめた。(文中敬称略)

名古屋の学校法人が新キャンパスの設計と学長就任を依頼

 山本は1945年、中国・北京生まれ。東京藝術大学大学院や東京大学生産技術研究所で建築を学んだ後、建築家として独立。横浜市の事務所(山本理顕設計工場)を拠点に78歳の今も国内外で多くの建築設計を手掛けている。

今回、山本の訴訟相手となったのは名古屋市の学校法人「同朋学園」。仏教系の同朋大学や同朋高校を名古屋市中村区に構えるほか、芸術系の大学として名古屋音楽大学、名古屋造形大学を運営している。

 山本によれば、2016年に愛知県小牧市にあった名古屋造形大学で講演したのがきっかけで、学園側から名古屋市北区に移転する構想があった新キャンパス(名城公園キャンパス)の設計を依頼された。

そのコンセプトを考えているさなか、当時の学園理事長の甲村和博と造形大学長の小林亮介が横浜の山本の事務所を訪れ、2018年度末で任期が終わる小林の後を引き継いで造形大学長になってほしいと山本に頼んだ。

 山本は海外で大きな仕事が進行していたため一度は断ったが、何度も頼まれたため学園側に3つほどの条件を示した。1つはキャンパスの設計と同時に学問領域を再編する大学改革もすること。2つめは大学の業務管理をする秘書(最終的には副学長)を付けること。3つめは教授にもなってほしいと頼まれたため、学生たちの指導もすること。

 学園側はその条件を受け入れ、理事会での面接を経て2018年4月、山本は造形大学の学長と教授、並びに学園の理事に就任した。

その年の12月には新キャンパスの用地が正式に取得され、翌19年8月には学園が山本と新キャンパスの設計監理業務契約を締結。以来、山本は学長職と並行して新キャンパスの設計を進めた。それは山本が描いた大学改革を具体化する、オープンでクリエイティブな教育の場となるはずだった。

 ところが、コロナ禍が2年目に入った2021年の年明けから、学園と山本の関係が大きく崩れ始める。

寝耳に水だった名古屋競馬場跡地利用コンペへの参加

 学園の中核である同朋大学長の松田正久から、山本に電話が入った。「学園が名古屋競馬場の跡地利用のコンペに参加するので、理事会で反対しないでほしい」との趣旨だった。

 名古屋競馬場は愛知県や名古屋市による愛知県競馬組合が所有する名古屋市港区の約20ヘクタールの土地。戦後から公営競馬が運営されてきたが、2022年に県西部の弥富市に移転することが決まった。県・市は跡地を2026年に地元開催するアジア競技大会の選手村に利用する前提で再開発するため、民間の開発事業者を公募。その応募グループの一つに同朋学園が参画し、公募型プロポーザル方式の審査(コンペ)で選定されれば同朋大学のキャンパスを移転するという計画だった。

公募は既に始まっており、3月には提案書類一式を出さなくてはならない。山本にとっては寝耳に水の話。学長を任された造形大学には直接関係ないが、こうした街づくりは山本の専門の一つだ。

 山本は既に公表されていたコンペの募集要項などを読み込んだ。その結果、跡地は競馬場こそ移転するものの、場外馬券売り場が新設されることが分かった。その位置や形状は初期条件で変えられない。つまり大学が馬券売り場の隣に移転しようとしている。さらに調べると、敷地は港に近いため、津波災害や土壌汚染のリスクも高い。

 「こんなところに大学用地があっていいのか。都市計画的にもあり得ない」

 山本は現地も訪れた上でそう確信し、理事会でコンペ参加の計画に反対の意思を示すことにした。

学園理事会で反対意思示すも賛成多数で参加決まる

 だが、学園理事長の甲村や同朋大学長の松田は参加を前提に話を進める。学園が参画しようとする事業者グループは中部電力が代表企業で、山本が松田からの電話を受けた日の翌日には、学園から中電に「参加表明書」が一式送付されていた。

 2021年2月19日の学園理事会でコンペ応募の事業計画が議題に上り、翌月12日の理事会では山本が真っ向から反対意見を唱え、甲村との間で言い合いが「ヒートアップ」(学園関係者)するほど紛糾した。しかし、結果的に3月23日の理事会で事業計画に対する採決が取られ、賛成11、反対7で可決された。

納得できない山本はこのコンペの前提条件そのものに問題があるとして、県と市に対して計画の具体的な目的や近隣住民への説明の有無などを問いただす「公開質問書」を6月に送った。だが、1カ月が過ぎても県・市から回答はなかったため、7月に名古屋市政記者クラブで単独の記者会見を開き、計画の見直しを訴えた。

 この間の6月24日には事業コンペの審査が終わり、同朋学園を含む中部電力グループが最優秀提案者(契約候補事業者)に決定。ふたを開ければ応募は2者で、中電グループ以外のもう1者は「事業計画の実現性」という評価項目で募集要項が定める配点の5割(40点満点中の20点)に届かなかったため失格という結果だった。山本はこうした選定方法も不透明だと指摘し始める。

学園側が山本の学長職停止の処分、山本は提訴へ

 一連の山本の動きは、学園側の態度をますます硬化させた。

 山本の記者会見の様子が新聞記事になると、学園は山本に「顛末書」の提出を求める。

 さらに8月3日、学園は常任理事会を開き、山本の学長職を停止することを満場一致で決議。山本に「辞令(懲戒)」と題する通知を郵送した。その内容は県・市への公開質問書の送付や記者会見の実施が「学園の立場を考慮しない自己本位・自己中心的な考えに基づくもので、忠実義務に違反した行為」であるという理由で、学長職をはじめ理事・教授職を8月13日から6カ月間停止し、期間中は「学園諸施設内への立ち入りは認めず、給与は支給しない」とする厳しい処分だった。

 山本はこれに応戦する。

 質問書の送付や記者会見は「建築・都市計画の専門家として県・市に問題提起をしたもので、学園の名誉や信用を毀損するものではなかった」などとした上で、懲戒処分の発令で重大な経済的損害と精神的苦痛を受けたと主張。学園を相手取って9月13日、懲戒処分の無効確認と停職によって支払いが取りやめとなった給与や慰謝料など計約4000万円の支払いを求めて横浜地裁(後に管轄は名古屋地裁へ移る)に提訴した。

 実はこの時点で、山本が設計を担当した名古屋造形大学の新キャンパスは着工から1年4カ月が経過し、形が出来上がりつつあった。

自らが設計した建築への立ち入りを禁止される異常事態に

 設計監理を任されていた山本は着工後も現場に足を運び、工事の状況をチェックしていた。設計から現場監理、そして完成後のメンテナンスまでを建築家が責任を持って携わることこそ山本の理想とする建築家像であり、その責任範囲をあいまいにするような発注方式やコンペの形式に異を唱えてきたのが山本自身だった。

 にもかかわらず、山本は学園から現場への立ち入りを拒否された。学長職の停職期間は当初の任期満了日である2022年3月末まで延長され、山本は実質解任させられた。新キャンパスは同年2月に竣工式を迎えたが、山本は自身の設計した建物に竣工後も立ち入れないという異常事態が続く。

 それだけでなく、山本は業務完了時に支払われるべき報酬5400万円を受け取れなかった。

 学園側が建物完成後、体育館の床材の色が指定と違ったり、らせん階段の手すりの間隔が広くて危険だったりするなどと、山本側の瑕疵(かし)を指摘。それらが改善されない限り、報酬を支払わないと主張してきたのだ。

 山本はこちらの件でも学園を相手取り、報酬支払いを求めて2022年7月、名古屋地裁に提訴した。この訴訟は1年余りの審理の末、2023年10月に裁判所側が山本の主張を全面的に認め、学園に5400万円を支払うよう命じる判決が出された。

「コンペ公募期間中に知事と学園関係者が会食」も波紋

 一方、地位確認の裁判でも学園側の混迷ぶりがあらわになった。

 学園はコンペ終了後の2021年7月と8月、計画地からの場外馬券売り場の移設などを愛知県知事の大村秀章に直接求めた。

 当時の理事長だった甲村は、裁判の証人尋問で「場外馬券場そのものは教育施設の隣にあっていいものではないと思っていた」と述べた。

 しかし、大村からは条件は変えられないと一蹴され、最終的に学園として計画からの撤退を決断。2021年12月、中電グループから同朋学園が抜ける「構成員変更」の申し出が県・市に承認された。

 一連の経緯について甲村は「(山本の)反対活動が影響した」と恨み節を述べた。

 もう一つ、波紋を呼んだのはコンペ公募期間中の「会食」だ。

 2020年10月19日、名古屋市内の飲食店で学園の甲村、松田、山本、名古屋音楽大学長の佐藤恵子、そして知事の大村と愛知県議の寺西むつみの6人が会食をした。

 甲村によれば、これは「名古屋造形大学の開業記念式典への出席を知事に依頼するため」に寺西を通じて実現した会合だった。

 ただし、この1週間前の10月12日には名古屋競馬場跡地利用コンペの募集要項が公表されている。

 山本はこのことに後から気付き、コンペ応募者が「募集要項公表後から契約候補事業者決定までの間、評価委員等と本事業に関して故意に接触したと認められた場合は失格となる」という募集要項に抵触する怖れを抱いた。「評価委員等」には当然、最終決定者である知事も含まれるとの解釈からだ。

知事は「公務でない」 県議は「コンペの話出ず」と説明

 実は、同朋大学は以前から新たなグラウンド用地を探していた。大学野球部に専用のグラウンドがないためだ。山本は10月19日の会食で、学長の松田が知事と野球グラウンドについて話をしていたことを覚えていた。

 その後のコンペの提案には大学ゾーンに野球グラウンドのイメージが描き込まれている。

 山本は、この日の会食が「コンペの募集期間中に知事に大学の移転計画への配慮を陳情する」形になってしまったと認識。コンペのあり方について人一倍提言をしてきた自分が「自らルール違反を容認する」ことになり、建築家としての名誉や信用、尊厳を深く傷付けられたとの主張を裁判の訴状にも盛り込んだ。

 これに対し、甲村はそもそもこの時点ではコンペの事業計画の存在すら知らなかったとして「会食と事業計画はまったく関係がない」と反論。松田も「会食では知事が野球好きという話が出て、その流れで私が野球部は専用グラウンドを持っていないのに過去にはプロ野球選手を輩出するぐらい頑張っているという話をした」だけだと弁明した。

 この会食について、大村は県秘書課を通じて「(知事としての)公務ではなかった」とした上で「詳細は寺西県議に質問を」と回答した。

 その寺西は、同朋学園本部のある中村区を地盤とする県議として会食の場を設けたことは認め、「席上、知事から愛知県全般についての話があり、その後に学園側から名城公園に新しいキャンパスを移転する予定なので、開校式典にぜひ出席をとの依頼があった。名古屋競馬場跡地利用コンペについての話題は出なかったと記憶している」と説明。また、会食の費用は「会費制だったと記憶している」と答えた。

 当時の評価委員の一人に尋ねると、この会食の件については「まったく知らない」と明かした。別の委員は守秘義務があって答えられないとした上で「審査は極めて公正に行われた」と主張した。ただ、少なくともこの会食が適切だったのかどうかについて、公の議論や判断はされていないとは指摘できる。

 競馬場跡地についてはその後、アジア大会の選手村としての整備が経費削減などのため中止となった。最大の前提条件が崩れる中でも、再開発計画は同朋学園を除いた当初の中電グループによって進められている。

「奪われた7カ月半を取り戻し、これからも声を上げる」

 裁判では昨年10月の最終弁論の時点で「山本氏の独善的な一連の非違行為は学園に対する信頼を著しく毀損し、中電グループの一員としての立場を維持していくのを困難にさせ、学内外に多大な混乱を生じさせる重大な非違行為だった」などと主張していた学園側だったが、12月26日付で一転、和解が成立。山本に対する「懲戒処分をいずれも撤回する」ことが合意された。

 これについて学園側にコメントを求めたが「お答えできることはない」という。学園は昨年3月末で任期満了を迎えた甲村が理事長を退き、山本の後に名古屋造形大学長となった伊藤豊嗣が理事長も務めている。

 一方の山本。「台湾の美術館の設計などが佳境で、正直この問題にいちいち時間を取られたくはない」としながら「造形大学の現場では設備的な不具合も出ているというので対応しなければならない。学長や教授としても(懲戒処分の出た2021年8月中旬から22年3月末までの)奪われた7カ月半という時間を取り戻して、まず学生に挨拶や指導をしたい」と話す。ただし、職務復帰について学園側とはまだ具体的な連絡や調整は一切していないという。

 「今の大学は経営や利潤優先の理事会の力が強くなり、それを文科省が肯定している。私はそうした大学運営の欠陥を指摘したつもりで、今回の結果はそれが覆る大きな意味があった」と山本は裁判の意義を振り返る。

 これまでにも群馬県邑楽町の新庁舎建設を巡り、町長の交代をきっかけに山本の設計案が破棄されたとして町を訴え、和解に至ったケースがある。建築家にとって裁判にまで訴えることはさまざまなリスクがあるはずだ。なぜそこまでするのかという問いに、山本はこう答える。

 「建築家は誰のために働くのか。公共施設なら地域社会の住民のため。大学ならキャンパスを利用する学生や教授のためだ。建築を使う人が損害を被るなら、それはおかしいと声を上げるのが建築家としての私の使命だ。今はそれを忘れて、直接お金を出すクライアントのために働く建築家ばかりになってしまっている」

 山本の問題提起は、建築や街や社会を、どこまで変えていくだろうか。
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建築師山本理研被迫辭去大學校長職務,上法庭,拿回設計費,並試圖復

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直到建築師山本理研被迫辭去大學校長職務,上法庭,拿回設計費,並試圖復出


建築師山本理研。

如果你從事建築或學過建築,想必很少人不知道這個名字。

他不僅以其設計的橫須賀美術館、埼玉縣立大學等傑作而聞名,而且還為提高建築師的地位、建立設計師選拔制度而進行了徹底的鬥爭,甚至甚至採取了合法舉動。 。

山本對名古屋的教育法人提起了長達兩年多的訴訟,並於去年10月勝訴,追回了約5,400萬日圓未付的設計費。 去年年底,關於他擔任大學校長一職的訴訟達成了和解,他實際上被解僱了,現在預計他將能夠重返該職位。

山本說:「考慮到大學教育的危機以及建築師的角色和專業精神,我別無選擇,只能提出這個問題。」山本想透過審判傳達什麼訊息? 我已經總結了細節。 (文中省略標題)

名古屋的一家教育公司請求設計新校區並任命校長。

山本1945年出生於中國北京。 在東京藝術大學研究生院和東京大學工業科學研究所學習建築學後,他成為獨立建築師。 78 歲時,他仍在橫濱的辦公室(山本理研設計工廠)從事許多國內外的建築設計工作。

這次,山本的訴訟對手是名古屋市的教育法人「同朋學園」。 除了位於名古屋市中村區的同朋大學和同朋高校之外,它還經營藝術學校名古屋音樂學院和名古屋造形大學。

根據山本介紹,他於2016年在愛知縣小牧市的名古屋造型大學演講,這促使他決定設計一個新校園(名城公園キャンパス),學校原計劃搬到名古屋市北區。要求的。

在考慮這一構想時,時任該校董事長的小村和博和時任滋慶大學校長的小林良介拜訪了山本在橫濱的辦公室,請他接替小林擔任滋慶大學校長,後者的任期將於 2018 財年結束。

山本一開始拒絕了,因為他有一個重大的海外項目正在進行,但經過再三請求,他向學校提出了三個條件:第一,他將設計校園,同時對大學進行改革,重組學術領域;第二,他將任命一名秘書(最終是副校長)管理大學事務;第三,他還將成為一名教授,這使得他被邀請成為一名教授。 第三,要求他成為教授,因此也要指導學生。
 學院接受了這些條件,2018 年 4 月,在與董事會面談後,山本被任命為藝術與設計大學校長兼教授,同時也是學院董事會成員。

同年12月,新校區用地正式獲得,次年8月,學院與山本簽訂了新校區的設計和監理合同。 從那時起,山本在擔任校長的同時就開始了新校區的設計工作。 新校區將成為一個開放和創新的教育場所,體現山本的大學改革願景。

然而,從2021年初開始,當冠狀病毒大流行進入第二年時,學校與山本的關係開始明顯惡化。

參加有點被忽視的名古屋賽馬場地利用競賽

山本接到了學校核心——同朋大學校長松田正久的電話。 “學校將參加使用前名古屋賽馬場場地的競賽,因此我們希望董事會不會反對。”

名古屋賽馬場位於名古屋市港區,佔地約20公頃,由愛知縣和名古屋市組成的愛知縣賽馬協會所有。 公共賽馬活動自戰後以來一直在運營,但決定於2022年遷至縣西部彌富市。 該縣和市正在招募私人開發商重新開發該基地,前提是將其用作2026年在當地舉辦的亞運會的選手村。 「同朋學園」參加了其中一個申請小組,計劃是如果通過公開提案競圖選中,則將搬遷同朋大學校園。

公開招聘已經開始,3月必須提交完整的提案檔案。 對山本來說,這是一個關於水的故事。 雖然城市發展與他擔任校長的藝術設計大學沒有直接關係,但都市規劃是山本的專業之一。

山本閱讀了已經發布的競圖報名指南。 據瞭解,雖然賽道將搬遷至原址,但將新建一個場外售票處。 它的位置和形狀在初始條件下不能改變。 換句話說,大學正在搬到賽馬售票處旁邊。 進一步調查發現,由於該地點靠近港口,發生海嘯災害和土壤污染的風險較高。

“在這種地方建大學可以嗎?從城市規劃角度來說這是不可能的。”

山本參觀了現場後對此深信不疑,並決定在董事會會議上表達反對參加比賽的計劃。

儘管在學校董事會會議上表示反對,但仍以多數票贊成決定參加。

然而,學校校長高村和道豐大學校長松田以他們將要參與的假設繼續進行討論。 中部電力是學校想要參加的事業團體的代表公司,山本接到松田電話的第二天,學校就向中部電力發出了一套「參加聲明」。

在2021年2月19日的學校董事會會議上,競圖的商業計劃被提上議程,而在次月12日的董事會會議上,山本直接表達了反對意見,他和高村的爭論“熱起來”(學校(相關來源) 不過,該商業計劃最終在3月23日的董事會上進行表決,以11票贊成、7票反對的結果進行表決。

山本不滿意,認為此次競賽的前提條件存在問題,並於6月向縣市發出“公開質詢”,詢問該計劃的具體目的以及是否向附近居民做出解釋。 。 然而,一個月過去了,縣或市沒有任何回應,他於7月在名古屋市政府新聞俱樂部舉行了單獨的新聞發布會,呼籲重新審查該計劃。

近日,6月24日,商業競圖評審結束,包括「同朋學園」在內的中部電力集團被選為最佳支持者(簽約候選人)。 打開蓋子,應徵者有兩名,另一名是中電集團以外的人,在評估項目「事業計畫的可行性」中,未達到招募方針規定的分數的50%(滿分40分,為20分)結果,他被取消資格。 山本開始指出,這種選擇方法也是不清楚的。

學校暫停山本校長職務,山本計畫提起訴訟。

山本的一系列舉動讓學校的態度變得更加強硬。

當山本的新聞發布會成為報紙文章時,學校要求山本提交一份「摘要聲明」。

此外,8月3日,學校召開常務董事會,一致決定暫停山本校長職務。 一份題為「辭職(紀律)」的通知已郵寄給山本。 其內容是,向都道府縣、市政府發放公開問卷、召開新聞發布會,是「基於自私、以自我為中心的思想,不考慮學校立場,違反忠誠義務的行為」。 」 由此,他從8月13日起被暫停校長、主任、教授職務六個月,期間不准進入學校設施,薪水也不發。

山本反擊。

聲明稱,發送問卷和舉行新聞發布會是「作為建築和城市規劃專家向縣和市提出問題,並不是為了損害學校的榮譽或信譽。」他聲稱,由於該命令的發布,他遭受了重大的經濟損失和精神痛苦。 9月13日,他向橫濱地方法院(後來管轄權移交給名古屋地方法院)對學校提起訴訟,要求確認紀律處分無效並支付總計約4000萬日元的賠償金,其中包括因停職而被取消的工資和贍養費。已提起訴訟。

事實上,此時,山本負責設計的名古屋造型大學新校區距離開工已經過了一年四個月,並已初步成形。

在一種不尋常的情況下,他被禁止進入他設計的建築

負責設計監造的山本在施工開始後仍繼續前往現場,檢查施工進度。 山本理想中的建築師形像是建築師負責從設計到現場監造和竣工後維護的所有事情,他反對模糊責任範圍的排序方式和競賽形式,這是山本本人所提倡的。

儘管如此,山本仍被學校拒絕進入現場。 校長暫停任期延長至原定任期屆滿日即2022年3月,山本實際上已被解職。 同年2月舉行了新校區的完工儀式,但山本設計的大樓完工後仍無法進入,異常情況仍在持續。

不僅如此,山本並沒有收到工程完成後應支付的5,400萬日圓賠償金。

大樓竣工後,學校指出了山本的不足之處,例如體育館地板顏色與規格不符、螺旋樓梯扶手太寬等。 他們堅稱,除非這些問題得到改善,否則他們不會獲得報酬。

山本於2022年7月也就此案向名古屋地方法院提起訴訟,要求學校支付賠償金。 此案經過一年多的審議,2023年10月,法院完全認可山本的主張,並作出判決,判令學校支付5400萬日元。

「比賽期間州長與校領導共進晚餐」也引起漣漪

另一方面,學校的困惑在確認現狀的審判中暴露無遺。

2021年7月和8月,比賽結束後,學校直接要求愛知縣知事大村英明將賽馬售票處從原計畫地點搬遷。

時任董事會主席的高村在審判的證人詢問中表示,“我認為將賽道外賽馬設施建在教育設施旁邊是不合適的。” '

但大村對此不以為然,並表示條件無法改變,學校最終決定退出該計畫。 2021年12月,縣市批准了「同朋學園」退出中電集團的「會員變更」請求。

對於這一系列事件,高村表示不滿,稱「(山本)的反對活動產生了影響」。

另一件引起轟動的事情是比賽期間舉辦的「晚宴」。

2020年10月19日,學校小村、松田、山本、名古屋音樂大學校長佐藤惠子、大村知事、愛知縣議會議員寺西睦美六人於10月19日在名古屋市一家餐廳共進晚餐,2020。

高村表示,這次會議是透過寺西促成的,目的是「邀請知事出席名古屋造型大學的開學典禮」。

然而,在此之前的一週,也就是10月12日,名古屋賽馬場地使用大賽的報名指南公佈了。

山本後來意識到了這一點,並表示,如果發現應徵者從招聘指南公佈到確定簽約候選公司期間故意就該項目與評審委員會聯繫,將被取消資格。違反招聘要求。 這是基於「評估委員會成員等」自然包括作為最終決策者的知事的解釋。

知事說,“這不是他的正式工作,”縣議員說,“沒有提到比賽。”

事實上,同朋大學尋找新的場地已經有一段時間了。 這是因為大學棒球隊沒有自己的場地。 山本記得,在10月19日的一次晚宴上,松田社長與知事談論了棒球場的事。

隨後的競賽提案包括大學區棒球場的圖像。

山本承認,當天的晚宴已經成為「呼籲知事在比賽招募期間考慮大學搬遷計畫」的一種形式。 他還在法庭申訴中寫道,他曾就如何舉辦競賽提出過很多建議,但最終“接受了違反規則的行為”,他作為建築師的名譽、信任和尊嚴都受到了嚴重損害。 。

對此,高村辯稱,他當時甚至不知道比賽商業計劃的存在,並表示:“晚宴和商業計劃完全沒有關係。” 松田也表示,「在晚宴上,知事提到他喜歡棒球,所以我提到,儘管棒球俱樂部沒有自己的場地,但過去一直在努力培養職業棒球運動員。」我這樣為自己辯護。

關於這次晚宴,大村透過縣秘書處部門回應稱,“這不是公務(作為知事)”,“具體情況請向縣議員寺西議員詢問”。
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